ブログを始めたものの、やっぱり自分の文章を載せるのが恥ずかしくて一度もちゃんとした投稿をしていない。
自分の文章に小指の先ほども自信が無い。自分自身から発出する情報の何にも自信がない。
最近は、コミュニケーションに難がある家族の中でたった一人豊かなコミュニケーション能力と感受性を持ってしまったが故に夫とはケンカが絶えず子どもたちともすれ違い続きだった祖母の事を考えたりしている。

祖母の長女である私の母はずっと彼女の母との関係に悩んでいた。東京の国立大学を卒業し、伴侶を見つけ、3人の子どもを持ち、中古ながら東京に一軒家を手にしても、出来ないことを数えているように見えた。
私の滑舌が悪いこと、妹のアトピー、弟のおねしょ…色々なことで祖母は母に意見し、しばしば深夜に電話口で口論していた。母は、祖母の言葉を無視することができなかった。涙交じりに反論する母は、故郷の言葉に戻っていた。深夜に聞くノイローゼ気味の、東北訛りの怒鳴り声。

祖母に癌が見つかってからは、母は東京と雪深い実家とを毎週往復し、怪しげなサプリメントや、野菜ジュースや、落花生の皮や、何かの皮や、何かの種や何かのキノコを熱心に祖母に与えていた。評判の良い病院を探し、転院もさせた。それでも、祖母の癌は全身に転移し、ついに打つ手が無くなった。
「おばあちゃん、新しい病院に移ったからね」と言われて、夏休みに連れて行かれた病院は、今までのものとは違っていた。地方にたまにある、居心地のよい小さなホテルのような雰囲気だった。ロビーにはアロマが焚かれていた。ラベンダーかスイートオレンジのどちらかだった。どの窓も広く、北国の白く澄んだ日の光が大量に差し込んでいた。
少し大きくなってから、そこがホスピスと呼ばれる施設だということを知った。もっと大きくなってから、ホテルどころでは無い金額がかかることも知った。
ロビーの本棚には小説や新書が並んでいた。私はそこで島田裕巳氏の新書を読んでいた。病室には医療用麻薬で眠りっぱなしの祖母と母とがいて、退屈だったし、死にゆく祖母に伝えることがあるタイプの孫じゃなかった。そんなに人格が大人じゃなかった。今もだけど。
祖母は家族に見守られて息を引き取った。私は、どうして死は自然なのにこんなに悲しいんだろうと思った。人生で、あんなに強く疑問を抱いたことはそれまでも、それ以後にも無い。

母は「私と弟は、本当にお母さんの最期に理想的な送り方をしてあげられたと思う」と言っていた。その満足に嘘は無さそうだった。
私も完璧な娘にはなれなかったから、母のことは理想的に死なせてあげたいと思う。